カモミールの死

 うちにはカモミールがあった。小鉢にカモミールを植えたのは誰だ。俺だ。種から植えたのだ。栽培セットをくれたのは目薬坂重三さんだ。(ぼく)が文章の中にAさんとかZさんとか以外の割とはっきりした名前を出す時、それは文章全体がフィクションであることを表している。だから変な名前が書いてあったら、あっ、これぁフィクションでげすな、と思うてもろうて問題ないのだが、目薬坂さんという人はなんというか豪放磊落傲岸不遜雨天決行実力行使を絵に描いたような太々しさが服を着て全力疾走しているような人なのであるが、その人がある日、突然家に訪ねてきて、その時俺はパジャーマを着て家の中を酔歩していたのだが、我が家のピンポンが鳴ったからドアの覗きグラスから外を見ると廊下に兵隊が立っていた。俺は驚きもせずに「おっ兵隊」と延べたあと、じっくりとその姿を視察した。兵隊は緑の鳥打帽をかぶり迷彩柄の上着を着て迷彩柄のズボンを履いて重厚なブーツを履いて、手に小鉢を携えて太々しく立っていた。俺はドア越しに「誰か」と誰何する。
「卑怯だぞ」と兵隊は言った。いきなり卑怯だぞとは卑怯だぞと俺は思った。なんで攻撃されなければならないのか。「ドアを開けて顔を見せろというんだ」と兵隊は口が悪かった。俺は渋々ドアをオープンし顔を見せるとそこに立っているのは目薬坂さんだった。目薬坂さんはフッと笑ったかと思うと小鉢を持っていない方の手でピースして、そのピースをゆっくりと俺の顔の方に近づけて来たから俺はのけぞった。「いや、なんですか」と俺が嫌がって問うと、「目潰ししようと思って」と目薬坂さんは言った。前から思っていたけれどこの人は本当によくわからない人だ。だから俺はこの人と仲がいい。
 目薬坂さんは俺の家に上がり込んで寝室兼書斎兼リビング兼シアタールームの真ん中に埋まった地雷のように鎮座して「今すぐに茶を出せ」と要求した。俺は冷蔵庫からカロリーメイトゼリーを取り出し放り投げた。目薬坂さんはキャッチしそこねてゼリーは彼の胸にどんと当たって膝に落ちた。「ありがとう」と目薬坂さんは言った。俺は敷きっぱなしの布団に潜り込んで、顔だけを目薬坂さんに向けた。目薬坂さんは横目で俺をちらっとちらっと見ていた。俺が本当に眠るのか、それとも眠らないのかを確かめているのだ。俺は眠らなかった。
「ヤギが帰ってこない」と目薬坂さんは言った。「もう5日ほど帰ってこない。どこかで死んでいるのかもしれない」と目薬坂さんは言った。「とても不安だ。俺はあいつを愛している」と目薬坂さんは言った。「いつも一緒だったんだ。分かるか。分からないだろう、お前には人の心が無いからな」と目薬坂さんは言った。「ヤギは俺の膝の上で眠るんだ。俺は奴の頭をそっと撫でてやる。すると変な音を出すんだ。ぷすすすという音だ。俺はその音が好きだったんだ」と目薬坂さんは言った。「ヤギが帰ってこない。ヤギが帰ってこない」と目薬坂さんは言った。ヤギというのは目薬坂さんが飼っている猫の名だ。俺は寝た。
 目覚めると、リビングの真ん中に小鉢が置かれていた。それは夕日に照らされてドラマチックだった。小鉢の横には種が入ったビニールの小袋と、手紙が置いてあった。手紙には「もしヤギをみかけたら連絡してくれ」と書いてあった。小鉢と種についてはまったく何も書かれていなかったので、俺は勝手に小鉢に土を盛り、種を植えた。何日か経つと土からぷつぷつと小さな芽が生えてきた。「うおっ、これほんとに生きている種だったんやんけ」と俺はうめいた。「大麻とかだったらどうしよう、逮捕だぞこれは!」と俺は怒りを感じて叫んだあとスマーホで調べてみるとカモミールだった。俺は日当たりのいい洗濯機の上にカモミールを置いて、時々水をやって育てていた。陽を浴びたカモミールはいつも歌っているようだった。
 それから幾星霜を経て、ある日パジャーマで盆踊りの練習を部屋でしくさっている時、部屋のピンポンがポンして覗きグラスから見ると兵隊が立っていて、鳥打、迷彩、迷彩、ブーツだった。「誰か」と誰何すると「あのう、目薬坂です。お久しぶりです」と言って兵隊は頭を下げた。ドアをオープンするとそこには目薬坂さんの妹さんが立っていた。目薬坂さんの妹さんは右足で床をたしんと蹴ったあと「変な格好ですみません兄がこれを着て行けって」と言って迷彩服の裾を握って尋常ならざる感情を発露させながら早口で述べた。俺は念のためのけぞった。目潰しをされるかと思ったのだ。でも妹さんはのけぞった俺を見てほっ、と変な笑いをしただけだった。
 部屋に入った俺は布団に潜り込んだ。妹さんは部屋の隅の座布団の上にこけしのように鎮座した。「猫のヤギが帰ってきたので、報告に行けって言われて」と妹さんは言った。「怪我もなくておかげさまで元気で病気とかもたぶんしてなくて、兄の膝の上で寝てます」と妹さんは言った。「猫は兄に懐いているんですけど私には全然懐いてなくて、たぶん私が尻尾を握るのが好きだからだと思うんですけど」と妹さんは言った。「でも強く握るわけじゃないですよ、そっとやさしく握るんですよ。柔らかくて好きなんですけど、でも猫はそれが嫌なのかもしれないですね」と妹さんは言った。俺はリモコンの再生ボタンを押した。ヴェートーベンのピアノソナタ『月光』が流れた。妹さんは手で膝をぽんぽんと叩いた。俺は妹さんの動く手と膝の隙間に瞬間的に手を入れて手にも膝にも俺の手が当たらないようにしたいと思ったけれどやらなかった。俺と妹さんの間には深い溝があった。深海のような沈黙が舞い降りた。俺は目薬坂さんとは仲がいいけれど目薬坂さんの妹さんとはほとんど話したことがなかった。目薬坂さんの妹さんはミステリアス・ガールだった。俺は寝た。
「あっ寝た」と目薬坂さんの妹さんが呟いたのが聞こえたので起きた。妹さんは俺の布団を勢いよく剥がした。俺はダンゴムシのように小さくなったあと立ち上がった。妹さんはにやけながらうなずいた。俺もうなずいた。妹さんは帰ろうとして、ふと洗濯機の上の小鉢に目を留めた。
「この鉢は、これから何か植えるんですか」と妹さんは言った。「私も植物好きなので」と妹さんは言った。小鉢には土しかない。「芽が出るといいですね、植物ってかわいいですよね」と妹さんは言った。
「ああ」と俺は呟いた。
「えっ」と妹さんは俺を見て呟いた。「泣いてるんですか?」